ニューヨークで過ごした1970年代

『ジョン・レノン、ニューヨーク』ニューヨーク時代のジョンに焦点を絞った作品

ハウス・ハズバンドとして過ごしたジョン・レノン

1974年10月9日にジョン・レノンによってはジュリアンに続く二人目の子供が誕生しました。一人目のジュリアンの時には、どんな風に子供と遊んでいいのか分からずにポールに向かって「どうやって子供と遊んであげたらいいんだ?!」と言っていたジョン・レノンは二人目の時には違いました。ジュリアン自身も父親のジョンに遊んでもらった記憶がないようで、ポールがジョンの代わりに遊んであげたり面倒を見てあげていました。ジョン・レノンにとってはショーンは二人目、そしてオノ・ヨーコにとっても前夫の間の誕生していた娘に次いで2人目の出産になりすが、ジョンとヨーコの間には流産を経てのショーンの誕生ということもあって、とても嬉しい出来事だったことでしょう。

ジョン・レノンは専業主夫

ジョン・レノンとオノ・ヨーコが結婚して6年後に誕生したのがショーン・タロー・オノ・レノンです。ちなみに名付け親は誰かと言うこと、エルトン・ジョンです。ジョンとヨーコが別居中に再会するきっかけともなったのがエルトン・ジョンということもあってでしょうか?!ショーンという名前を付けた理由として、ジョン・レノンの民族的ルーツがアイルランドにあることから、アイルランドで「ジョン」と匹敵するほど、ポピュラーな男子の名前ということで「ショーン」となり、タローはジョン・レノンがオノ・ヨーコに「ショーン」と同じように何か日本語の名前を!というリクエストで、「ジョン」に匹敵するポピュラーな日本人男子名の「太郎」から「タロー」と名付けれました。


専業主夫になった背景

実際にジョン・レノンが主夫として過ごしていた期間は、未だにまだ謎の部分があります。失われた週末を終えてから再びニューヨークのダゴダハウスでオノ・ヨーコと一緒に生活を始めてから、ミックジャガーの曲をプロデュースしたり、リンゴ・スターのアルバムにも参加したりと音楽活動は行っていました。さらには、1975年2月ショーンが誕生する焼く半年前に、カヴァーアルバムの「ロックン・ロール」を発表していますが、この時期は本当にジョンにとっては音楽版権のことなどでグッチャグチャな時期でもあったため、かなり辟易していたのではないか?!とも思えます。

「ロックン・ロール」が収録されたのは、1973年10月~1974年10月と約1年の期間で収録されていますが、プロデューサーとしてたてたフィル・すぺくたーがマスターテープを持ち逃げしてしまったり、ようやく戻ってきたマスターテープには使えるのが4曲程度しかなかったり、おまけに出版権者がもう完成間近という状態の音源を盗用してレコードを出したりと本当に散々な目にあっています。もちろんこの権に関してはジョンが控訴して勝訴となっていますが、ほとほと絶え間ないレコード制作に辟易としていたようです。そしてレコード会社との契約が切れると、どんなレーベルとも契約を交わすことなく、音楽活動を停止してハウス・ハズバンドとなりました。

そしてショーンが誕生したこともあって、ジョンとヨーコの2人は夫婦としての役割を見直すことになります。そして2人の出した結論は、ジョン・レノンが担当するのは育児と家事。そしてオノ・ヨーコが担当するのはビジネスと家計となりました。ジョンとヨーコとの年の差は7歳。ヨーコの方が7歳年上の姉さん女房です。ジョンが育児を担当して、ショーンのオムツを変えたり育児に没頭した期間であることは間違いありません。

なぜって?!ジョン・レノンは、息子のショーンを抱っこしたりおんぶしたりして、堂々と人前に登場した初めての男性だからです。

3分間のロックン・ロールをつくるよりも
人間一人を育てることの方がよほど芸術的だ …ジョン・レノン

最初の子供、ジュリアンが誕生したときはビートルズ全盛期の頃でもあり、アイドル的な人気ということもあって結婚したことそのもののすら画していました。もちろん育児にジョンが関わることは全くありませんでした。ショーンが誕生したことで、音楽的なキャリアを休止して「ハウス・ハズバンド」という言うことはひじょうに斬新な出来事でもありました。

当時は今の風潮よりももっと強く、男性は仕事で女性は家事。家の中で子育てや家事をするのは女性が当然の仕事というのは、暗黙の了解でいくら女性解放運動(ウーマンリブ)の嵐が吹こうが、「家事と育児はオレに任せろ!」と堂々と育児をして、そしてその育児を楽しんでいたのはジョン・レノン。ここでも社会にジョン・レノンのライフスタイルを通じて社会に一石を投じたのは間違いありません。

音楽と家族は両立しない
…ジョン・レノン

ジョン・レノンはきっぱりと育児休暇に入りました。ただ愛息子ショーンのオムツやミルクを作ったりしていただけではありません。それなら『子守』であって『ハウス・ハズバンド』ではありません。ジョンは、料理もしていました!!すごい。それも料理だけではなく、小麦を練ってパンを焼いたりご飯を炊いたり。この話を『ジョン・レノン、ニューヨーク』中でオノ・ヨーコが語っています。

ジョンがキッチンに入って、粉からこねてパンを焼こうと苦心していました。ショーンとヨーコはパンが焼きあがるのを待っていました。やっとのことでパンを焼き上げて、ジョンがテーブルの上にパンんを置きました。そしたら、「みんなが手を伸ばしてアッという間にパンを食べてしまったの。」と語りヨーコは、あっという間にパンがなくなってしまったわずかな時間のことを回想しています。そしてジョンはしみじと「これは、女の人は大変だ。パンを一生懸命作っても直になくなってしまって、賞ももらえない」と言ったそうです。

ジョン・レノンがハウスハズバンドとして、一生懸命家事にいそしんでいた姿が伺える場面でもあります。

避暑地軽井沢へ

子育て期間中、ショーンが2歳になったぐらいに小さなショーンを連れて毎年のように家族で軽井沢を訪れています。2歳になったショーンを連れて来日は1977年5月です。来日中にヨーコの親戚たちに2歳になった可愛い盛りのショーンを会わせて、東京・軽井沢・北海道・京都で約5ヶ月に渡る日本での滞在を楽しんでいます。

中でもジョン・レノンのお気に入りは軽井沢です。万平ホテルに宿泊して、自転車に乗ってお気に入りのお店へ出かけたり楽しいゆっくりとした時間を過ごしていました。日本への来日は1977年から1979年と毎年家族で訪れています。日本に滞在中もゆっくりとした時間を過ごしていましたが、それはニューヨークに戻っても同じようなライフスタイルをハウスハズバンドのジョンは送っていました。

就寝する前には読書の時間で、ベッドのところには精神科学であったり歴史の本、そして宗教の本などが傍らに必ずありました。心の平安を保つために、ジョンには精神的な物を常に求めていたことが伺えます。

ヨーコはジョンの印税などで得る財産管理のほかに、投資事業を積極的にしていました。不動産や畜産といった投資事業にも手腕をふるってかなりのビジネスの才覚を発揮してかなりの収益を上げたようです。


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ニューヨークで過ごした1970年代

ソロとしての楽曲

ジョンとヨーコ

ジョンとヨーコ