ニューヨークで過ごした1970年代

『ジョン・レノン、ニューヨーク』ニューヨーク時代のジョンに焦点を絞った作品

1980年12月8日月曜日

ハウスハズバンド生活から約5年、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの共作「ダブル・ファンタジー」は1980年11月17日にリリースされました。『ダブル・ファンタジー』のアルバムジャケット写真を担当したのは、ジョン達一家が毎年日本へ来日した際に親交をしている写真家の篠山紀信です。アルバムジャケットではモノクロになっていますが、もちろん原版ではカラー撮影されています。リリースされたジャケットを見たときに、篠山紀信はなんか不吉な感じがしたといいます。そして残念なことにリリースされて間もなく、あの12月8日がやってきたのでした。

12月8日月曜日

ダブル・ファンタジーのジャケット写真のジョン・レノンは、トレードマークの眼鏡もなくビートルズ時代を感じるマッシュルームカットになっています。そしてリーゼントスタイルのように、グリースなどの整髪料も全くつけていない姿でした。そして育児休業からの復帰作品ということもあり注目を集めていた中でジョン・レノンの若々しい姿はとても評判になりました。

この1980年の冬のニューヨークは気候が不順で温度が上がったり下がったりという気候不順の年でした。例年に比べると温度が10度も高くなったりと、いつものニューヨークではない気候です。そして『ダブル・ファンタジー』が11月17日にリリースされてあの日、12月8日がやってきました。

午前中

ジョン・レノンは6時に起床しました。いつもはキッチンでコーヒーを1杯飲みながら新聞を読む。それがジョンのいつもの日課です。そして7時になると息子のショーンが起きてきて、食事の指示を出すというのがいつもの風景ですが、12月8日は息子のショーンは乳母と遠出していたこともあってジョンは朝6時に起床して、ぼーっとした時間を過ごしていました。そして8時後に自宅のダゴダ・ハウスから外出して、再び自宅に戻ってきたのは11時前です。自宅で女性写真家アニー・リーボヴィッツによる『ローリング・ストーンズ誌』のフォトセッションを控えていたため、帰宅しました。

この日のジョンの姿は、ビートルズとしてデビューする前のハンブルク時代のような姿です。眼鏡を外して『ダブル・ファンタジー』の撮影よりもさらに短く髪の毛はカットされていて、髪の毛はグリースでリーゼント風に整えられていました。

そして撮影されたのが、有名な裸姿のジョン・レノンが、オノ・ヨーコにしがみつくような写真です。撮影時のときのことを、アニー・リーボヴィッツが振り返っていますが、「ジョンと会えたことだけで大感激で、ジョンは偉ぶることなく、指示することもなく、自由にさせてくれた。」と言っています。ヨーコが撮影にあたってズボンを脱ぎたくないと主張したため、ヨーコは黒い服を着ていて、そのヨーコに裸姿のジョンがしがみついているという有名な写真となりました。

アニー・リーボヴィッツとのフォトセッションを終えて、しばらく自宅でくつろいだ後にはインタビューです。

午後2時~夜

ラジオインタビューでは、ジョンは同世代に向けて話をしています。「70年代はひどいものだった。80年代はなんとしても良い時代にしようじゃないか。それこそ僕たちがしなくてはいけないことだ」と語っているほか、クオリーメン時代のことやポール・マッカートニーや、ジョージ・ハリスンと出あった事などについてもて語っています。そして『死』についても話しています。「自分の仕事は死ぬまで終わらない。死んで土に埋められるのは、まだずっと先だろうけど」「そしてもし死ぬならヨーコよりも先に死にたい」

午後5時

夕刻の5時なると、レコーディングスタジオへ向かう時間となりました。オノ・ヨーコ新曲の『「Walking On Thin Ice」:ウォーキング・オン・シン・アイス』のミックスダウン作業をするためです。そのため二人でダゴダ・ハウスから、出かけますが頼んでいたリムジンがまだ到着していませんでした。そのため、インタビューに出たRKOラジオ局の車に同乗させてもらおうと近づくと、そこに角縁の眼鏡をしている大きな男がリリースされている『ダブル・ファンタジー』を手にして近寄ってきました。そしてジョン・レノンがアルバムジャケットにサインをしています。その様子をたまたまた居合わせたパパラッチが写真におさめています。その男こそが、マーク・チャップマンだったのです。

午後5時半

スタジオはタイムズ・スクエア近くにあり、そこで『「Walking On Thin Ice」:ウォーキング・オン・シン・アイス』のミキシングセッションには約4時間ほどかかりました。セッション中に、毛フィン・レコードのデヴィッド・ゲフィンが現れて『ダブル・ファンタジー』がイギリスで発売されてから2週間んでゴールド・ディスクになったことを言いにやってきました。レコーディングに一区切りがつくと、ジョンとヨーコは食事の予定をキャンセルしてスタジオからまっすぐ自宅のダゴダ・ハウスへと戻りました。


午後10時

ダゴダ・ハウスには22時50分近くに、ジョンとヨーコの乗ったリムジンが到着しました。イムジンから先に降りたのはヨーコです。そしてヨーコに続いてジョンが降りて入り口を目指したところ、物陰に隠れていた誰からが、不意にジョンに声を掛けてきました。「ミスターレノン?」

ジョンが声に振り返ると、至近距離の5メートルから6メートルの距離で男がいて、両手で射撃姿勢をとりました。ジョンが答える間もなく、男が持っていた銃がすぐに火を噴きジョンの身体に弾丸が命中しました。男が銃から発射したのは5発でそのうちの4発がジョンの身体の背中、胸、腕に命中しました。「I'm shot! I'm shot! 」撃たれた!と2度叫び銃で撃たれながらも、ジョンは必死に入り口へ向かいます。ヨーコが狂ったように叫びながら助けを呼び、ジョンは入り口階段6段まで上がって力尽きました。ダゴダ・ハウスのドアマンが駆け寄ってジョンの身体に自分のジャケットを被せました。警備員はすぐに911通報をして、セントラル・パークの警察署から数分で警察官がダゴダ・ハウスへ到着しました。

警察官が到着した時には、まだジョンには意識がありました。4発の銃弾を受けているため、大量出血していたためとにかく一刻を争う危険な状態であることは見て明らかでしえた。そのため、3台目に到着したパトカーに2人の警察官がジョンを乗せて、1.6kmほど近くのセント・ルータス・ルーズベルト救急病院へ運びます。一人の警察官が、瀕死状態のジョンの意識を保たせるために質問すると、ほとんど聞きとれないような声がジョンから帰ってきて、「ジョン・レノン」そして「背中が痛い」と聞き取れないような声で訴え段々ジョンの声は弱まっていきました。

ルーズベルト救急病院へ到着して直に、7人の医師によってジョンに心臓マッサージと輸血が行われましたが、到着した時点で脈拍はほとんど止っていました。ジョンは全身の8割の血液を失っていて必死に手を尽くしましたが、どうにもできることはできませんでした。失血性ショックによってルーズヴェルト病院で医師により23時15分にジョン・レノンの死亡が告げられました。ジョンが亡くなった時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」だったといいます。

病院で医師からジョンの死亡を聞かされたときにヨーコは「彼は眠っているということ?」と聞き返したといいます。

ジョンが撃たれたという知らせを来て、先にルーズベルト病院に入ってゲフィンが遅れて病院へやってきたヨーコを抱きかかえようとして病院を出たときに、12月8日悪夢のような一日が終わりました。


イマジン・ピース・タワー

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ジョンとヨーコ